パキスタン、アフガニスタン H15.12.26->H16.01.09 |
成田についたときは正直ほっとした。表題からアフガニスタンでは何かが、と思われた方がいるかもしれないが、パキスタンにはまいった。
はじめに
年末は家族が実家に帰るというので、はじめは北京に行く予定であった(マイレージがたまっていてただでいけたので)。予約も取れていたが、中国サーズの危険があるとのことで、家族の猛反対にあい、どこかほかの場所をさがしていた。11月になっていたので1月4日に日本に戻れるフライトはほとんどなかった。インターネットで探していたら、パキスタンはありそうだ。連絡してみるとまだ予約可能とのこと。パキスタン自体は特に興味はなかったが、アフガンに近いので、少しひかれた。時間があればアフガンにいけるかなと思い、アフガン旅行の拠点だったクエッタ便を旅行社にたずねた。するとなぜクエッタなのかを聞かれ、もしかしてアフガニスタンにいくんですか?という。話を聞いていたらアフガンのビザは日本で簡単にとれるという。そく、予約。ただ成田−パキスタンは往路が金曜日、復路は月曜日着なので帰りは5日の予定。イスラマバードとカブールの間はPIAが飛んでいたので聞いてみるとその旅行社ではとれないというので、PIAに直接聞くと日本から予約できるという。でも、成田−カブールが旅行社で買えるはずという。一応予約して、旅行社に電話するとPIAから電話があり、成田−カブールのフライトを購入。ただ、イスラマバード−カブール間は月曜日のフライトとなるので29日。すると三日ほど余裕があるので、ついた翌日の27日にイスラマバード−ギルギットの予約を入れた。ギルギットはフライトキャンセルが多く(というより冬は飛ぶことのほうがめずらしい)、旅行社はスカルドにしたらといわれた。フンザに行きたいというよりは、飛行機からカラコラムを見たいというだけなので、どちらでもよかったのであるが、帰ってくることを考えると、フライトキャンセルで飛ばないほうが害は少ない(カブールへの旅に支障がないので)ギルギットにした。カラコラムは時間をかけてまわりたいところである。
旅の始まり
行きの飛行機で西アジア、アラブ好きの女性が隣に座っていて、イスラム社会について聞くことができた。キリスト教社会から見たムスリム(日本のメディアはその立場に立つ)と現地人の意識のギャップは今回の旅の一つの視点となった。
勉強になったこと
パキスタン、アフガン、イランはアラブでない
ペルシャというのはヨーロッパの人間が言っていることで、自分たちは誇り高きアーリアであると考えている。ちなみに、イランんという名前はアーリアからきている。
パジャマの現産地はパキスタン
ちなみに、彼女が言うにはアラブのほうが旅がしやすいとのこと。アラブのほうには少ないながらもキリスト教社会も存在しているため、女性一人での旅がしやすいという。今回パキスタン、アフガニスタンを歩いてみて実感した。
夜9時過ぎにイスラマバードに到着。明日の朝7時過ぎにギルギットに飛行機で行く予定なので、空港で朝まですごそうと思っていたため、宿にいくきはなかったのであるが、これはちょっと失敗。なんと、イスラマバードの空港には室内に待ち合い室がなかった。ちょっとじたばたしているうちに12時を過ぎてしまい、いまさらホテルに行くこともできず、寒い中明け方を待った。パキスタンは宿代は極端に安く、汚くてもよければ200円も出せば泊まれる。近くのcafeで12円のチャイをすすりつつ明け方を待った。
6時過ぎにチェックインしようとするとよくわからないがchanceとかいわれてなかなかチェックインできなかった。一時間ぐらいしてからチェックインできたが、結局キャンセル(この便は飛ばないことのほうが多い)。ちょっとがっかりしたが、スカルド行きのチケットを買った。でも、これもキャンセル。飛行機からからコラム山脈を見るという野望はつきたので、スズキ(乗り合バス・スズキの軽トラックの後ろに座席を付けたもの10以上乗る。多いときは運転手を含め14人ほど乗っていた。でも10円)に乗り、ラワルピンディの旧市街に。ピンディーの町はスズキの軽、ハイエース、カローラ、馬、ロパが交通手段で、町中で羊やヤギ、鶏が路上のごみを食べていた。いままでいろいろな国に行ったが、町中で家畜とここまで密接に暮らしている国は初めてだったので驚いた。おかけげで靴の裏は馬糞まみれである。
ギルギットにバスで行こうとも思ったが、月曜日までに帰ってこれなくなると困るので、バスでペシャワールに。距離はそう遠くないのだが4時間ほどかかる。観光バスのようなものだったので、それほどはきつくないが、それでも立っている人がいた。ただ、料金は安く100円ほど。
ペシャワールは20年前は観光客がわざわざ行くような場所ではなく、緑豊かな田舎町だったらしい。しかし、ソビエトのアフガン侵攻に伴い、難民が大量にやってきたため木々は薪となり、草は家畜の餌となり、砂嵐の町となったという。陸路でアフガニスタンに行く場合のゲートインの一つがここペシャワール。もう一つは西部のクエッタ。ペシャワールからだとビザさえあれば簡単にアフガンに抜けることができる。ただ、パキスタンには植民地支配のコウイショウで、トライバルエリアという地元部族の支配地域が多数ある。イスラマバード政府の警察権は国道上のみ。ここをとおるために警察の許可が必要なる。ペシャワールのすぐ北から国境まではトライバルエリアであるため、警察の許可とそのにいる軍人を一人連れて国境まで行かなければならない。と書くととてもおっそろしいところのように感じるかもしれないが、帰りにとおったかんじでは、別に危険はないようである。軍人を連れていくのも、軍人の雇用対策ではないかと疑ってしまった。
夕方ペシャワールについてバザールをぶらぶら。、60円ほどのザクロジュースをがぶがぶ飲んだ。後日結構ひどいはらくだしをすることとなるが、その原因はこの生ジュースではないかと密かに疑っている。
200ルピーの宿をとった。部屋は広く、値段の割には清潔であった。バザールを見て歩るく。ここでは、店舗と呼べるようなものはほとんどなく、お祭りの屋台のような店がたくさんある。しかし、そこでものを売っているのは、ひげおやじか男の子。パキスタンでは基本的に職業についている女性というものが極端に少なく、私が見た働いている女性は、空港とPIAと超高級なホテルだけであった。むさい男からみかん(皮のかんじは日本のみかんだが、味はオレンジ)、ホテルで食べた。
朝はやくから、ありがたい放送で目がさめる。この国の宗教は親切なようで、お祈りを人々が忘れないようにと朝昼晩と放送が入る。まじめな無宗教者である私には余計なお世話であるが、まあ、しかたない。ホテルをチェックアウトして、バスターミナルにいき、タフティーバイにいく。タフティーバイとターミナルで騒いでいたら、バス(といってもハイエースだが)のころまで連れていってくれた。この国ではアルファベットが読める人はあまりいないようで、アルファベットの読める人=英語の話せる人のようだ。そういった人が20人ぐらいのバスの客の中にひとりふたりいて、私のたびを助けてくれ。
タフティバイの町につくとリキシャがたくさんよってきた。遺跡に行きたいというと20ルピーだというのでお願いしたが、ちょっと走ったところで50ルピーといいだした。ならいいよといっておりようすとすると、承知したのか走り出した。終点までくると、また50だという。20でも50でも、はっきりいってどうでもいいのでるが、まあ初めの約束なので20Rはらい、かれらをふりはらって遺跡にむかった。遺跡は『迷いかた』によると無料ということであったが、200Rもとられた。あとで聞いたところによると、世界遺産に登録されたところは一律200Rをとるようになったようである。でも、パキスタン人は15R。ちなみに飛行機の国内線の料金も外国人は高く、3倍ちかい。金の話はともかく、、、このガンダーラ遺跡はそれほど大きいものではないが、山の中腹にあり、石を重ねて作られたもので、まあよかった。遺跡を少し上ると山の頂上となり、下のうすよごれた町がよく見えた。子供もおおぜいきていて、ピクニック気分の山を登ってる子供や、遺跡の中で火を炊いて食事を作っている人もいて穏やかなところであった。のんびりしていたら1時を過ぎてしまい、今日はピンディーに戻らなければならないので急いで山をおりた。帰りは25ルピーで馬車にのってバス乗り場にもどった。ピンディーについたのは8時過ぎになったのでバスターミナルのホテルに泊まった。400Rとえらく高額(800円よ)であったためきれなところで、ひさびさに頭を洗った。この日の夜食べたシシカバブが今回のたびの中で一番うまかった。
12/29
いよいよ今日はカブールである。昼過ぎに空港に行き出発を待つが、いつになっても出発しない。失発を一時間半過ぎてPIAは欠航。でもアシアナ航空でよければどうぞ、という放送が入りカブールに向かう。客が少ないので間引き運転をしているようだ。アレジのような顔のストュアードから菓子とジュースをもらう。菓子はイラン製。飛行機はいままでで一番ぼろ。でも、一応飛んでいく。ヒンドゥグシ山脈の西側は雪が少なく、東側は真っ白。そのうち茶色っぽい町が見えてきて着陸。壊れたのだか、破壊されたのだかはわからないが、数台の飛行機が転がっている。入国審査が終わり、無事入国。ルピーをアフガニに換金。ここが一番レートがよかった。空港で時計をあわす。パキスタンとの時差はプラス30分。
空港を出るとタクシーかとしつこくたずねてくる男がいて、値段を聞くと20$だという。ちょっと話をしている間にタウンエースを持ってきて、乗れという。20$は高いと渋っていると警官をつれてきて、20$は公定レートで、どのタクシーを使っても同じだと、しつこい。なんとなく乗らざるをえなくなり、偉く高いが15$で町までいくこととなった(普通にタクシーに乗るとまあ、1〜2$である)。車に乗ると、自分の知っているホテルに行こうといいだした。むなくそ悪いので、町に入ったところで車を降りた。運転手は自分はお金がないから金をくれというのを無視して歩きだした。街中だったのでカバブ屋があり、注文。食べながら安いホテルはないかと焼いているおっちゃんにきくと、30$なら近くにあるという。まあ、寒いししかたないかなとおもっていると、十代の青年がやってきて安いところを紹介すると言う。すぐにタクシーにのせられ、5分ぐらいのところで降りる。タクシー代を出そうとしたが、彼が払った。連れて行かれたのはジャミルホテルという6$ぐらいの安いホテルであったが、あいにくまんぱん。そこに白人の男がきて安いホテルがあるというので歩いて3分ぐらいのところのビルに行くとかなりきれいな部屋に通される。一泊20$という。部屋もきれいだし、ジャミルをのぞくと最安値なのでそこに泊まることにした。案内をしてくれた少年に礼金とタクシー代を渡そうとしたが、受け取ってもらえなかった。親切な人だった。
宿のおやじが日本人がいるので紹介するというので彼とあった。岩手県庁に勤めるひとで仮に岩手さんと呼ぶ(最後までお互いに名前を名乗らなかったので名前は知らない)。かれの仕事は農業関係で、冬は暇で25日休みを取りアフガンにきていると言う仏教美術マニア。昨年もアフガンにきて、持ち出してはならないであろうな、と思われる仏像を買って味をしめたという。どこに行くのか聞かれたので、マザリシャリフに行くつもりであると言うと、かれもマザールにいくというので翌日一緒にマザリシャリフに行くことになった。パッカーの情報に詳しく、一人での旅は不安のようで同行の志ができて喜んでした。車に乗ったとき信用できる人間が一人だと、運転手、客がぐるになって強盗に変身した場合に対処できないといっていた。
夕食はカバブ。ここの食事は極端にメニューはすくない。基本はひつじ。串焼きであるが、赤身−脂身−赤身を串で刺し焼いたもので、ナンが付く。カブールは電気がまともにきていないので夜は自家発電の無いところは真っ暗。たまたま入った店はジンギスカンのまつえのようで、モンゴリアンの人。昔、元が中央アジアに攻め入った時に残ったとびとが、未だに残っていると言うのは本をよんで知っていたが、結構いるのである。800年にわたり住民の移動がここアフガンではほとんど無かったと言うことだと思われるが、イスラム教が普及しているというのもなんとなく不思議である。
カバブとナンで90af。チャイを頼んだが、無いと言うのでペプシを飲んだ。
翌日4時にホテルをでて、長距離ターミナルへ行く。街は真っ暗でちょっと不気味であった。ターミナルと言ってもハイエース、タウンエース、カローラがあるだけ。この国には長距離バスは無く、上記の車に客を乗せて目的地まで行くのである。目的地によりターミナルの場所が異なり、マザリシャリフの場所はかなり離れていた。10時間ぐらいかかるマザールまで300afなのに、乗り場までのタクシーは100afもとる。四輪駆動のタウンエースで出発。少し走るとオフロードになる。谷あいを抜けて走り続けると道の雪が多くなり、雪も降り始めた。ノーマルタイヤのタウンエースは滑りながら山を登っていった。サラン峠には立派なトンネルが開通していて、峠越えはあっけなく終わる。このトンネルが開通したのは数日前らしいが、それまでは素掘りの小さなトンネルだったらしい。
くだりに入り対向車が渋滞していた。大型トラックが多数止まっていて、それらが雪の準備をしている間を進んだ。いくら四駆でもノーマルタイヤはよくすべり、途中何度も客が車から折降りて車を押しながら進む。崖沿いを横にスリップする車に乗っていた人はきっと恐かったと思う。途中ワゴンからカローラバンに乗り換えさせられた。これも大人数で、助手席は二人、後ろの荷物置場にも一人乗車。カローラに乗ってから一度昼食休憩があった。でも、店に入ったのは男性だけで、女性は車の中で待機していた。これはここだけではなく、バーミアンにいったときにも同じで、女性が外食をすると言う習慣が無いらしい。これはその国の人が決めることではあるが、よそ者から見るとお気の毒である。
サラン峠からマザールまでの道は美しかった。山道を少し下ると田んぼのよなものがあり、畑があった。もう少し下り、山と平野の間ぐらいのところからは岩山が続いた。兼高かおるがいままでいったところで、一番美しいところはどこと言う質問で、アフガニスタンの同地域を答えたと言うがわかるような気がする。雨交じりの天気で、薄暗かったが、本当に美しい場所。世界で一番かどうかは??だが、十指にはいるものであると思う。渓谷と草原が交互に現れ、もう一度見たい風景である。ただ、マザールに近くなると見渡す限りの砂漠なった。
3時ごろに無事マザールに到着。小雨が降っていた。町は泥だらけ。ぴちゃぴちゃと泥をはねながら歩く。この水っぽい町が夏には毎日40度を越す猛暑の場所と言うのは、どうもイメージがわかなかった。前方にはブルーモスク。空も地面も灰色なのにそこだけは青。白い鳩がたくさんいてそこだけは別世界のようであった。マザールはこじんまりした所だが、インターネットカフェ等もあり、旅行者にとっては、便利な店がブルーモスクを中心にかたまっていて使いやすい。岩手さんとホテルに行った。一人だと20$。二人一部屋だと15$だというので、岩手さんと部屋をシェア。暗くて、寒い部屋。ストーブは薪。チェックインの後、私は電話会社に行って、PIAのリコンファームをしようとしたが、明日おいでと言われ、インターネットカフェでリコンファームのようなことをした。
私は腹下しだったので、夕食は食べず早く寝た。岩手さんはカバブに5$もとられたと憤慨しドスタム将軍の悪態を付いていた。明日行こう近くの町を歩くといっていた。
翌日は岩手さんとわかれ、電話会社に行った。どうしてもパキスタンのPIAにはつながらず、日本のPIAは年末休み。ちゃんと帰れるかどうか不安になるが、アフガニスタンではどうしようもないのであきらめ、カブールに帰ることにした。カブール行きのターミナルにいく途中で、いろいろなところへいく運ちゃんから声をかけられた。その中にはウズベキスタンなども含まれ、国境は思ったよりも開かれているようだった。
カブール行きターミナルに行くと、タウンエースで600AFだという。来るときは300だったのに高いと訴えるが、今度はカローラの助手席だと1,000だという。高いとは思ったが、腹下しのため体調不調だったため、1000はらってカブールに行くことにした(後でわかったのだが、雪の日は値段が倍になるそうである)。確かにタウンエースより快適で、不調な体にはやさしかった。雪のサラン峠もチェーンはいて快適に通過。8時過ぎに無事カブールに到着。タクシーでパークホテルに向かう。$20+100afを支払い暖房付きの部屋で快適に休んだ。
1/1
朝早くおきて4時にホテルをでた。今日はバーミアンに向かう。2時間ほどは闇であったが、今日は天気がいい。カブールを囲む山々が雪におおわれてとても美しい。舗装道をはずれ、途中からオフロードになる。川添の道は結構凍っていて恐い。対抗車がよろめきながら崖っぷ地を走っているのを見ると、次にこの車がとおるときは大丈夫だろうかと大いに不安になる。今回のたびで一番恐かったのはここであった。
オフロードに入って一時間ぐらいで休憩。村の子供がやたらと写真に写りたがり、たくさん写真をとった。デジカメだったので、その場で画像が出るのが面白いらしく、大人もたくさん集まってきて喜んでいた。マザールとは違いここは極端に寒いが、極端に乾燥していて、雪はほとんどない。白いところでもうっすらと雪が覆っている感じ。谷超え山超えてバーミアンについたのは3字過ぎ。というか、4時近く。バーミアンの町は小さく端から端まであるいても5分ぐらい。ホテルは一応暖房付きのところをとった。寒かったが一応灯油のストーブ。でも20$。すぐに大仏を見にいく。町から歩いて15分ぐらいのところにおかあさんと呼ばれた大仏跡がある。赤茶色の礫岩の壁が続いていて、そのいっかくに仏像の跡があった。その周りには小さな穴があり、仏教画があったそうである。ムスリムにとって仏教遺跡はあまり興味のある対象ではないようで、一応小さな看板が一つあったが、特に説明などなく、観光に使うというかんじでもなかった。
仏像跡からの眺めは素晴らしく、5000mクラスの山が真っ青の空とコントラストをなし、旅行者を感動させる。ちょうと夕方だったため、だんだんと山や壁が赤く染まっていく。少し西にむかって歩いていくと、もう少し大きな大仏跡がある。ここはおとうさんといわれるものだったもの。こここもきれいさっぱり大仏はなくなっていた。えらく寒いので、おとうさんを見て宿にもどった。まだ腹の調子は悪いので、食事はせずチャイだけ注文して寝た。初詣はバーミアンの大仏跡で、思いで深いお正月であった。
1/2
朝4時におきて、出発。とんでもなく寒い。マイナス20゜Cには達していたと思う。冬の八ヶ岳の朝のようである。便所は当然屋外の様なところにあるので凍結。星がきれいだった。ハイエースに乗りきた道をもどる。カブールに戻ったときは、カブールも晴れていた。パークホテルに行くと岩手さんがいて、明日からバーミアンに行くと話していた。結局お互い名前を名乗らずわかれた。夕飯はホテルで食べた。ホテルの食事は当然カバブとチャイで、外で食べるよりは少し安かった。
1/3
今日で正月も終わりであり、イスラマバードに帰る日である。フライトは午後なので、午前中はホテルの裏にある山に登る。7合目ぐらいまでは家が立ち並んでいて、住人がしきりに話しかけてくる。帰りにコーヒーを飲んでいけといってくれる人もいた。最後の家の近くで、その最後の家にすむ少年が話しかけてきた。彼はよるとこれ上部は爆弾の危険があるのでやめたほうがいいと忠告。その山に登った人の話をきいていたので、大丈夫だとはおもったが、もしも、地雷をふんでしまってもいやなので下山を決意。するとその少年が家によっていけという。もしも強盗だとこまるな、とも思ったが女性もいたのでお招きに預かる。母親と姉と弟の10以上の家族で、姉の何人かは学校にいっているとのこと。あの山道を毎日かようとはご苦労さんというようなところにある泥作りのぼろい家であったが、中に入ると結構きれいで、巨大なこたつがあったのにはおどろいた。娘も4人いて、ブルカをかぶらない若い女性を久しぶりに見た。試しに彼女たちの写真をとっていいかと聞いてみた。しんなりOKがでて、髪をとかしはじめる彼女達を見てイスラム世界でも、若い女性の行動が自分にも理解できるものであることを感じることができて安心した。小学校に通っている少年は将来パイロットになりたいといい、学校では歴史、科学、算数、英語の勉強をしているといっていた(会話はその少年と英語で。お互い拙い英語しかしゃべれないのでよく通じた)。父親は銀行に勤めている。どうしてこんな不便なところにすんでいるのかを尋ねたかったが、政治的な問題なので遠慮した。
しばらく話をしていても、物取りではないかという疑念は続いていた。茶を出してもらったのだが、眠薬が入っていないかと心配だった。少々においのする物が入っていたので、この匂いは苦手だからと茶をことわったら、娘の一人がその茶を飲んだので薬が入っていないか疑った私は少々申し訳ない気分になった。母親が匂いのしない茶を入れてくれたので、いただいた。おいしい茶だった。一時間ぐらいおじましてたが、話題もなくなったので町におりた。初対面の人間にこんなに親切にしてくれる国はアフガンが初めてであった。
まちの屋台で食事をして、おみあげを買おうと思うがアフガンオリジナルのものはあまりなく、あってもじゅうたんの様にパキスタンのほうがやすいという状況で、おみあげはアフガニにした。でもこのお金もじつは外国からの輸入らしい。
買い物はできなかったが空港にいった。これでアフガンともさよならだな、なんてタクシーの窓から町をながめていたのであるが、やはりそんなはずではということになった。空港でいくらまっても出国の案内がないのだ。結局フライトはキャンセル。理由はよくわからないが月曜日までは飛ばないよーと言われ、ちょっとパニック。しかたがないので陸路でパキに向かうべくタクシーに乗る。ジェララバードまでの乗合はまだあったので、カローラにのってカブールを出発。えらく深い谷をおりてジェララバードに向かう。ここもすごくきいなところだった。しばらくはいままでのアフガンと同じで草木がはえていなかったが、標高が下がるにつれて少しづつ増えてきてなんなとなく安心できる。ジェララバードについたのは夜もすっかりふけていたが、カブールとは違い町が明るい。人も道にいて、気温も高い。パキスタンに近いと実感した。運転手にやすい宿屋につれていってと頼んでついたところはきれいな部屋が20$,そうでないところは10$。迷わず10$の部屋をとり、その宿にあった食堂で食事をとった。カバブいがいにもあるようだったが、面倒なのでカバブとチャイをたのんだ。部屋に帰ってもストーブのいらいな気温はうれしかった。
1/4
あさ5時におきて国境までのタクシーを探す。すぐにタクシーは見つかるが 国境までいく人がおらず、なかなか出発しない。少し余計にだせば一人でもいくというので数ドル余計に払ったところ、すぐに同乗車があらわれた。途中で降りたり乗ったりする人も結構いて、どうも損をした気になる。車窓からはのどかな田園風景がみれら、カブール以北とはちがい、暮らしやすそうな印象だった。一時間半ぐらいで国境。出国のスタンプをもらい、パキスタンに入国。日本人らしき男性とすれ違ったが、お互いに顔をみて、ちょっと笑ってさようなら。パキスタン側は物資が圧倒的に豊富で、両国の経済力の差を肌で感じる。
入国の手続きが終わると軍人を乗せてペシャワールまでくだる。『迷い方』ではトライバルエリアはえらく恐ろしいところのように書いてあったが、普通の町であった。ただ、何かあった場合の警察力については弱いのかもしれない。カイバー峠を越え、山道を降りていくと平地にはいったところで、トライバルエリアが終わる。ペシャワールからカイバー峠にいく場合は、事前に許可が必要なのに下りは必要ななし。
ペシャワールのPIAの営業所に向かい、予約を確認。不愛想に予約ははいっていないという。どうも、カブールからイスラマバードまでのフライトがキャンセルになったので、自動的にイスラマバードから東京の予約もキャンセルになったらしい。いくら話しても、今日の予約は取れないというのみで、らちがあかない。翌日のカラチ−>東京も空きがない。しかたがないからイスラマバードに帰ることにした。ピンディから家族に連絡をとり、帰りは金曜日になることを伝えた。時間はあるのでフンザにいこうかとも思ったが、一応自粛し、イスラマバードにある日本人経営の宿に行った。いってみるとやすいほうの宿は2年前に閉めたとかで、近くのホテルを紹介された。フライトキャンセルの話をしたら、南アジア会議があり東京便は24時間以上遅れていて、「あす営業所に行ってご覧なさい、きっと取れるわよ」といわれた。この時点で予定よりはいちにち遅れるが、予定の便で帰れる可能性が出てきた。あす、明け方に東京のPIAに電話をすることにして、徳永さんの宿をはなれた。すでに暗くなっていたので、2軒となりの宿にとまることにした。一泊3000円ほどする私にとっては超高級ホテルで、バスタブもついていた。ガスストーブもついいていて、体を洗い、洗濯をした。10日ほど風呂に入っていなかったのであかが出るわ出るわ、これほどあかが出たのははじめてだった。本当は今日飛行機に乗っているはずであったのに、とほほなきぶんではあった。
1/5
翌朝5時に日本のPIAに電話。運良く電話がつながった。事情を話している途中で電話が切れ、それ以降はずっと電話がつながらなかった。9時にPIAに行くが、席はないという。1時間ぐらいしてからもう一度行ったが、答えは同じ。ここで、今日のフライトに乗ることはあきらめた。8日のフライトの予約をとり、イスラマバードからピンディに行った。フンザに行きたい気持ちを押さえて、8日まで遠くに行かない決心をしてピンディの安宿をとった。夜ピンディーの町を歩いていると中華料理屋に入ると日本人の団体がいた。なにやらガンダーラ美術紀行とかいうツアーらしく、楽しそうに盛りあがっていた。 5日のフライトが取れていたとは知らぬ私は、団体はいいなー、面倒なこも添乗員がやってくれるしなんて思いながら宿代よりも高いラーメンをすすっていた。
1/6
今日は何もすることがないので、町の見物。軍事博物間が町の北のほうにあるので、そこにいくことにした。途中パールホテルというパキではトップクラスのホテルに行き、コーヒーを飲む。私は海外旅行では高いホテルにはとまらないが、最高級のホテルのラウンジには良く行く。喫茶店みたいな落ち着けるところがあまりなく、値段もたかが知れているら。ここは外とは違いイスラム社会ではなかった。 働く女性が居てカブリものをしていなかった。コーヒーを飲んでゆっくりしてから軍事博物館に行ったら休みだった。
ケンタでおやつを食べたが、ここもちょっと外国で日本のように若い男女が楽しそうに話をしていた。ここを利用できるのは経済的には上の人々なのかもしれない(値段は普通の食事の5倍以上)。でも、店員は男だけだった。
夕食はパールホテルでとった。バイキングで800円ぐらい。まずくはないが、別にうまくもないもの。値段が値段だけにしかたがないのかもしれないが、一泊2万円のホテルの食事がこの程度かと思うとちょっと物足りない。まあ、でもアメリカやイギリスよりはましか?
ピンディも飽きてきたので、ラホールにでもいきたいなと思ったが、なにかあると困るので我慢した。我慢してよかった。
1/7
明日は帰国なのでPIAに予約の確認をしにいった。なんとびっくり、予約が入っていないという。不愛想なおばさんとは私の英語力できなかったので、日本のPIAに電話をした。電話で確認ができたことは以下のとおり。5日に私が電話をした時に、日本では私の予約をとる手続きをしていてくれて、夕方には日本への予約が取れていた。よって、8日のフライトの予約はキャンセルされた。5日には乗っていなかったので、私の予約はなくなっていた、という。事態は飲み込めたし、PIAの人が努力してくれたこともわかるのであるが、ここで帰れないのは困るので明日のフライトの予約を入れてもらうことにした。夕刻には予約の確認ができた。予約が取れていたのに帰れなかったなんて、実にむなしかった。社会人としては予定どおり帰れないというのは問題だし、正月明けのフライトだったので一万円も多く支払ったのにとか、カラコラムの山の中ならともかく、町中でヒゲおやじといっしょにいるために有給休暇を4日も使うのかと思うとむなしいとか、いろいろと頭の中をかけめぐった。気分は悪いがこうなっちまったものはしかたがない。明日帰れるかと思うと少しほっとした。
1/8
今日のフライトは11時なので、昼間はフルに使えるためタキシラにいくことにした。たらたらとチェックアウトを済ませ、チャパティとカレーとチャイをいただき、超距離バスターミナルまでいく。タキシラはガンダーラ遺跡で有名なところで、ピンディからも一時間ぐらのところにある。バスの車窓から見える車のほとんどは中古のハイエースかカローラで、埼玉森林病院と書いてある車を見たときはびっくり。ただ、ハイエースは幼稚園バスが結構多く、日本だと幼稚園児が十数人乗るところをパキスタンではヒゲおやじが同じ人数乗るのである。だから、横はともかく、前のいすとの距離が極端に少なく兆時間だと結構辛い。今回のたびは交通に関してはハードだった。
国道から遺跡までは数キロありそうだったが、途中食事をとりながぷらぷらしていたら道に迷い、地元の人にきいたらリキシャ止めてくれたのでしかたがないのでリキシャで博物館に向かう。博物館の入場料は200ルピーだというので、博物館には入らず、葉ラッパで野ぐそをして近くの遺跡をみる。遺跡といっても古い工事現場後のようなところで、看板がないと見過ごしてしまうようなところだった。ただ、タキシラは遺跡群といっていいところで、立派な多数の遺跡があるようだ。手持ちのルピーもあまりなかったので、たらたらとバス停まで歩いていると加治屋のおやじが寄っていけという。このおやじは英語が話せるので他わいもない話をしたのだが、パキスタン、アフガニスタンではこういうひとが多くいた。
夕方バスターミナルに到着。残念ながらちくわのような形をしたシシカバブは食べられなかった。スズキでフオアラチョークまでいき、空港までもスズキに乗って空港についた。今回の旅はおしまい。
勉強になった本
女性の見えない国 松山章子 朝日新聞社
民宿「シルクロード」 今日も開店休業 大忙し 督永 忠子 合同出版
おばはんからの緊急レポート 督永 忠子 創出版
