中国、インド、パキスタン、アフガニスタン |
旅日記 インド編
11/4 (金)
午前中の仕事を片付け成田に向かう。チェックインをしようとしたが、飛行機が到着していないとい。しかし、予定通り出発。3時間ほどで上海着。一応中国に入国。空港で10$換金しようとしたら、断られた。一軒めでは手数料が50元といわれ、二軒目では、はなから相手にされなかった。ちょっと何か食べたかったが、出発までひもじい思いをした。中国許すマジ。くいものの恨みはおそろしいのである。
11/5(土)
予定通り3時前にデリーに到着。こんなに早い時間なので空港にはたくさん人がいた。外に出るとニューデリー行きのバスがちょうどあって、乗ってしまう。バスをおりると客引きがうるさい。しつこい。予想以上にしつこくこまる。駅の中は寝ている人がいっぱいいて、インドという感じ。外国人用のサービスはまだしまっていた。7;20のアムトリスタまで2等の切符をかった。113ルピー。ホームで電車をまつ。電車がきたが2等車両がない。駅員に聞くと別のプラットホームへいけと。どうやら、乗ろうとした電車には2等車はなかったようで、あわてて切符を買いにいく。4時までにラホールに行かなければならないので、この電車をのがすことはできなかった。窓口で1165ルピーを要求された。そのまま払ったが、一番高いクラスを買わされた。なんと2等の10倍である。最高級列車は茶が出たり、食事がでたりとサービスはいろいろあるが、なんで10倍と思うとむなしくなった。ステイタスのための車両なんだなと思った。となりにすわったおばさんは食事代をふくことからなにからなにまで、電車の職員にやらせていた。インドの上流階級というのはこんな生活をしているのだなと思った。
電車は30分遅れで、アムリットサルに到着。余裕がないので駅を降りてタクシーを使う。国境までいき、出国と入国の手続きをとってパキスタンにはいった。空港まではタクシーかリキシャを使用しなければいけないようであった。タクシーは700ルピーという。リキシャは300というので、リキシャにのったが、途中で故障。別の相乗りリキシャに乗り換えた。小さな町まで行くと、下ろされタクシーに乗るようにいわれた。タクシーは500R。高いとおもい、リキシャをさがした。300でいくというので、そのリキシャにのったが、途中で私にガソリン代は払わせるは、タバコ休憩はしたいというはとんでもないやつだった。あげくのはては、空港の一キロぐらい手前で私をおろし、あとは歩けという。頭にきたので、空港まで運ばなければ金は払わないといって歩き出したら、空港までつれていった。ガソリン代を含めて300Rはらったが、あと50R払えとうるさかった。
飛行機の出発ちょい前にチェックインでき、5時にはペシャワールについた。まだ明るかったので空港から町をあるく。町を知るには歩くのがいちばん。町の規模や位置関係が体の感覚としてわかる。新市街地にはいり、日本人ご用達の安宿に行くと、部屋は無いという。仕方が無いのですぐ近くの安そうな宿にいっても部屋はないと断られた。ちょっとこまったなと思って町を歩いていると、学校の同級生から電話があった。彼女は私がパキスタンにいるといったら、びっくりしていたが明日アフガニスタンに行くと報告しておいた。便利な時代になったものである。
町をあるいていたら、また安そうな宿があったのではいってみると支配人は日本語をはなした。以前大宮に住んでいたそうだ。150Rというのでそこに泊まった。夜街中を歩くとジュース屋があり、ざくろジュースがおいてあった。
11/6(日)
今日はアフガンにわたる日なので、意気揚々と道をあるく。少し時間か早かったので、ペシャワール博物館により、カンダーラ遺跡から出土したブッタの像などを見た。断食中のブッタはなかなかリアルなほうのこけ方をしていた。
パキスタンには治外法権のような場所がたくさんある。その地域を支配している部族が警察権を持ち、連邦政府の法が及ばないのである。それをトライバルエリアというのだが、ペシャワールとアフガンの国境にそのトライバルエリアがあり(国道上のみ連邦政府の法が及ぶ)、アフガンに渡るにはそこをとおるので、許可がいるの。Home & Tribal affairs departmentで許可書をもらい、軍人を車に同乗させるのが条件となる。その役所にいって、トライバルエリアへの入場許可書をもらおうと思ったが、休みだそうで、仕方が無いので旧市街を散策した。なお、ムスリムの国では金曜日がお休みなので、日曜日は大丈夫かと思ったのだが、、、 後でわかったのだが、現在パキスタンでは金曜日は半休、日曜日はやすみだそうだ。
旧市街のバザールは楽しい。食べ物も日本ではあまり見られないものもの、人々の活気も。食べ物はピンディーあたりとはちがって、シシカバブーが多い。羊肉をトマトといためて、ナンと食べる。ピンディーあたりでは日本のインド料理やで出てくるカレーっぽいものが多いのであるが、肉主体になっている。アフガニスタンにいくとカレーではなく羊の串焼きとナンになる。町をあるいていると以前泊まったヒデアットホテルを発見。200Rとのことなので、ここに泊まることにした。街でチャイをのんでいたら、爺さんが話しかけてきた。明日アフガンに行くと話したら、ジェララバード、カブールはいいが、カンダハールやマザールは危険だからいってはいけないという。
パキスタンはまだ暖かく、半そでで十分なのだが、虫が多かった。町のハエは我慢できたが、部屋にかがいて、うるさくよく眠れなかった。
11/7(月)
今日こそは許可書をもらいに9時に役所に行った。そうしたら写真を持ってこいという。しかたがないので、町にいって写真をとった(130R)。申請書を書き、写真とパスポートのコピー、パキスタンとアフガンのビザのコピーを渡す。すると写真は見ただけで、返された。何のための写真かと少々頭にきた。が、許可書はもらった。
外にでて、タクシーをさがすが、なかなか見つからない。リキシャの運ちゃんがしきりに乗っていけというが、国境まではリキシャでは無理だとおもい断る。しかし、運ちゃんはしつこく、どうやらトライバルエリアの手前までリキシャでいき、そこからタクシーにのれといっているらしい。150Rだというのでリキシャにのった。結構長時間リキシャにのり、トライバルエリアの入り口まで来たときに警察にとめられた。荷物を調べられ日本から持ってきた携帯について、何に使うんだとしつこくきかれた。欲しかったようだが、日本でしか使えないとしつこくいっていたら解放してもらえた。そこでタクシーに乗り換え、ちょっと先でタクシーに軍人をのせて無事国境の町トルハムに12時に到着。タクシーの客引きがはげしく、うんざりしているとアフガン人親子が話しかけてきて、車で来ているのでカブールまで乗って行けと言う。英語も達者で、信用できそうなのでついていった。駐車場においてあったカローラの前のタイヤは二つともパンクしていて、修理をしていたら出発は13時となった。親父は建築家で学部はアフガン、マスターコースはインドで学んだとのこと。内戦のことやタリバンのことをききたかったが、やめておいた。妻などはペシャワールに住んでいて、週末ペシャワールに遊びに行っていたというから、どこが本拠地だかはよくわからない。かれらに現在のアフガンの治安についてたずねたところ、やはりカンダハール、クエッタ方面は危険とのこと。じぶんなら飛行機を使うといっていた。彼には食事をごちになったりして、9時にカブールについた。国境からカブールまでの道は二年前より格段に悪くなったような気がする。二年前はカブールから国境まで行ったのだが、眠ることができたのであるが、今回は道が悪く年中飛び跳ねていたので、眠れなかった。スピンザーホテルにとまる。ここはまだドル払いである。
11/8(火)
8時ごろ宿をでて、テレビアンテナのあるコーエアスマイ山に登る。以前カブールに来たときに途中まで登った山で、今回は頂上までいきたかった。前回は山の中腹に住む子どもに地雷があるからやめろといわれて頂上までいかなかったのだが、道がついていたので頂上までいった。途中使用済みの長さ10cmぐらいの大きさのしいのき型の玉のようなものが無数に落ちていて、ここもかつて戦場だったのだろうかと考えた。頂上からはカブールの姿がよく見え、カブールが盆地であることがよくわかった。遠くの山も見えて、頂上まできたかいがあった。カブールは1800mほどなので、テレビ塔は2100mぐらいか。少々涼しかったが、気持ちがよかった。山をおりてラピス・ラズリのあるチキン通りにいった。やはりきれいなやつは高かった。ひとつ安いやつをかった。
まだ、11時だったので、ジェララバードまではいけるかなと思って、昔ジェララバードいきのハイエースの乗り場に行ったが見つからず、乗り合いバスのおっさんにジェララバードといったら連れて行ってくれた。ジェララバード行きの車を探していたら、国境の町トルハムに行くタウンエースがあり、ラッキーと乗り込む。12時に出発したのだが、ぎりぎりでパキスタンに渡れそうだと思った。
カブールからジェララバードまでの道のりを明るいうちに走るのは初めてで、荒涼とした乾いた大地にはかれた草がところどころあるだけで、生物の気配のしない場所だった。途中一度休憩した場所は湖のあるところで、そこから渓谷を下っていく。谷はとても深く、いままでの砂と丸い石ではなく、巨大な岩石の間を通っていった。しばらくするとまた乾燥地帯にはいったが、不思議なことに家畜がいる。
4時過ぎにジェララバードを通過し、7時ごろトルハンに到着。アフガンのイミグレーションでとまってくれと運ちゃんにいったが、国境まで連れて行かれた。国境では大勢の人がいて、私が日本人だと知ると役人が私のパスポートを見て、アフガンの出国のスタンプをいそいでもらってこいという。アフガンのイミグレーションはしまっていたが、役人はとなりで茶をのんでいて、事務所をあけて手続きをしてくれた。だのに、国境に行くと日没後は通れないと、入国拒否。ジェララバードに帰れといわれた。いろいろと抗議したが、無駄だった。しかたがないので、野宿でもしようかと思い、屋根のあるところに入ってみたが、人はじろじろみるし危ないかなとおもって、国境手前の集落までもどった。飯屋があったので、飯をくいながら、ここらに宿はあるかと聞くと、ここにとまれという。どうも、食堂兼宿のようで大勢のひとが眠り始めた。店の人々はかわるがわるやってきて、歓待してくれた。食事代はとられたが、泊まるのはただのようだった。浜茶屋のできそこないのようなところだったが、虫に襲われることも無く、快適だった。
11/9(水)
6時には起床。よい天気。食事をとって国境へ。9:30にはペシャワールについた。デウバスという、韓国系のバス乗り場にタクシーが到着。値段をみると結構高い。ピンディにもいきたいし、でもラホールにもはやくつきたい。10:30にペシャワールをでてラホールには16:45。時間的には結構厳しく、国境を越えなければならないことを考え、ラホールまでいくことにした。このバスは650Rと高いが、日本の観光バス並で、驚くべきことに女性のガイドがのっていて、客室サービスをしていた。パキスタンも少しずつ変わってきている。
ほぼ予定通りラホールに到着。しかし、どこについたかわからない。少し歩くが、あきらめてリキシャを利用。20分ぐらいで駅到着。90Rと結構安かった。400Rと少々高い宿に泊まる。石鹸を買い、水シャワーで体を洗った。明日はインドである。
11/10(木)
7時に宿をでて、バード・シャヒーモスクにいった。歩いて30分程度。巨大なモスクで圧倒されるが、下足代25Rをとられたが拝観は無料。外国人と見ると高い料金を請求するところが多い中、実にうれしい。巨大で美しいモスクだった。
帰りはバスで駅まで行き、宿をチェックアウト。国境まで行くバスは20分ほどまっていたら来た。1時間半ほどで、鈍行バスは国境までついた。タクシーを使うと700Rするものが、バスだとたった16R。時間があると金がかからないし、安心して安らかな気持ちになれる。国境では荷物を運ぶインド人が頭に荷物をのせて、行列で歩いていた。車で運べばすぐなのにと思ったが、不思議な光景だった。賄賂を要求されることも無く、無事インドに渡り、うるさいタクシードライバーを無視してあるいていたら、50Rでアムリットサルまで運ぶというタクシーがあらわれた。乗ってみたら白人がすでにいて、タクシー代はいくらかと聴かれたので50Rと答えたら、その白人が運転手に抗議をはじめた。結局私はタクシーから下ろされてしまった。しかたがないからローカルバスのあるところまで歩いていたら、途中地元の人がバイクに乗せてくれ、バス停のあるところ近くまで運んでくれた。ここからローカルバスに乗ってアムリットサル。1時すぎには駅に着いた。2:55にニューデリー行きの電車があったので、それまでスィク教徒(ターバンをした私たちがインド人と思っている人々)の本山の黄金寺院にいき見物。戻ってきたら電車はこず、inqueryで再度たずねたら、19:30とのこと。しかたがないので、旧市街をぶらぶらし、また黄金寺院にいって時間をすごした。この黄金寺院に入るにあたっては、入り口で靴を預け、はだしではいる。水で足を清めるのだが、聖なる水のようで私の足を洗った水で、顔を洗っている女性がいて、少々複雑なきもちになる。夕暮れの黄金寺院は美しく、一時間ほど眺めて駅に向かった。駅についたらすでに電車は到着していて、二等車は満杯。これから何時間もたって電車に乗る気力はすでになく、電車でニューデリーに行くことはあきらめ、バスにした。予定を1時間過ぎてバスは出発した。
11/11(金)
6時にold delhiに到着。デリーの不思議な光景に圧倒される。町にはベッドのようなものがたくさんあって、たくさんの人が寝ている。地面に寝ている人もたくさんいる。ブルーシートのようなもので、家を作って生活している人もいる。混沌のデーリーである。歩いているうちに7時すぎにはニューデリーについた。疲れたのであまり宿探しはせず、目に付いたrajdhani palaceに飛び込み、200Rだったのでそく決めた。昨日のはずはひどいバスでしりや腰がいたく、よく眠れなかったのでベッドに横になれるだけでもうれしかった。旅が長くなってきたためか、少々疲れが出てきているようだ。ぬるま湯であるがお湯のシャワーがでたのがうれしかった。昼から町を散策。高級な紅茶をおみあげにかったり、した。インドでうれしいのはたべもので、ベジタリアンの店にはいればかならず野菜にありつけること。たいした量の野菜ではないのだが、それでもうれしかった。
11/12(土)
午前2時過ぎにホテルのまわたしタクシーに乗り空港へ。これでインドを離れられるのかと思うと、少しほっとした。飛行機は予定通り出発。しかし、どうも熱っぽい。風邪をひいたようであ。ほぼ定刻に上海に到着。250ドル以下は50元の手数料をとるという、不届きな中国に金を落とすもんかと、空港に泊まる覚悟をする。しかし、鼻水がでて、熱っぽく体がだるい。夕刻になり、クレジットカードで空港のレストランで食事をした。あまりうまくは無かったが、空腹には勝てなかった。そうこうしているうちに11時を過ぎ、警備員が話しかけてきた。1時半になると、空港から追い出されるとのこと。元気ならば、空港の外でとも思ったが、なにせ中国である。風邪で体調も悪く少々弱気になり、ふらふらと空港内を歩いていたら、ホテルの客引きのお姉さんが寄ってきてホテルの斡旋をする。US$払いのできるホテルがあったので、しかたなくそこに泊まることにした。なんと$40。こんなことなら、昼間から宿屋をとって上海雑技団を見に行けばよかったと思うが、後の祭り。お迎えの車に乗りホテルへ。ホテルではi-modeが使えたので、メールの確認をして、風呂に入り10日分の垢を落とした。
11/13(日)
お迎えの予定の6時にチェックアウトをしたが、お迎え車が来ない。結局きたのは7時で、また上海の印象が悪くなった。上海から成田へ。短い旅はこれでおしまい。
11/24
なぞの発熱とかなりひどい下痢。病原大腸菌O6だってさ。