血塗られた巨大なものツアー 
 北京、クレムリン、アウシュビッツ
               H13.02.02->H13.02.18

  西福祉卒業旅行に行こうと12月ぐらいから考えていて、はじめはブラジルに行こうと思い予約までしたのであるが、年末にNHKスペシャルの映像の世紀を見て方向転換。俄然アウシュビッツに行きたくなり、年明けに計画を変更。ただ、飛行機で行くのはつまらないので、今まで乗りたかったシベリア鉄道で行くことにした。結果として今回は無駄なでかいものシリーズとなった。
ポーランドまでは旧共産圏を抜けるため、中国、ロシア、ベラルーシのビザが必要となる。その後もスロバキア、ルーマニアとビザの必要な国がめじろ押し。スロバキアとルーマニアは自分でビザを採ったが、前三国は時間もなく旅行社に依頼。そのビザだけで5万円もかかった。出発前に北京までの方道航空券、北京での宿泊代、プラハまでの電車代、ベルリンでの宿泊代、帰りのベネティアからの方道航空券とかなり高い旅行となってしまった。

さて、ロシアまで電車で行くルートであるが、4ルートが考えられる
1 ハバロフスクからロシア
2 北京からモンゴル経由でロシア
3 北京から満州経由でロシア
4 ウルムチからカザフスタン経由でロシア

4は情報がまありなく却下。中国に行ったことがなかったので1は却下。2は距離がちょっと短いので却下。ということで、満州経由でシベリアに行くことにきめた。切符はワルシャワまで買い、ベネティアから帰るということ意外は、特に予定なしのたびである。ただ、北京とモスクワの高いホテルはそのホテルをとらないと汽車の切符を売ってくれないとのことでやむなく出発前の予定にはいることとなった。

午後から仕事を休み北京へ。北京に一泊である。北京について、入管の壁には万里の長城が描いてあり、いまだに中国にとっては外国人というのはこういう存在なのねと、ちょっとびっくりした。中心街のそれらしきところでバスをおりて民族飯店まで歩くのであるが、地図で見るよりもずっと距離があり、大きな荷物を背負って寒い中歩くのはちと不安であった。途中天安門広場など通過するのであるが、その巨大さにあっとうされた。ホテルにチェックインすると、汽車の切符は自分で旅行社まで取りに行けという。荷物を置いて取りに行くのであるが、住所の場所がよくわからず、一時間以上探してしまった。疲れる国である。
その後夕食をとる。民族飯店のレストランはフカヒレなどあって魅力的であるが初日から散在というのは貧乏症の私にはできないので、外で食べた。レストランに入り中国語のメニューを見るがまったくわからない。もうちょっとわかるものかと思ったが、現実は厳しくなんとなくおかずのようなものと、なんとなく麺類のようなものを注文した。一つは松などの種を炒めたもので皿一杯に盛られて出てきた。もう一つは小さなどんぶりにラーメンのようなものが入っているのであるが、つゆはつゆでなくラーユのようなもの。面の下のほうにはサンショの粉がたまっていた。種はうまかったが、それでも限度があり、ちょっと量が多すぎた。ラーメンのようなものは、、、まあ日本人の口には一般的にはあわないでしょう。
モスクワ行きの汽車の出発は明日の23:50。明日飛行機できても十分に間にあうのに一泊しないと切符を売らんとは、さすが中国である。外国人からはいただけるだけいただきましょうという、悪癖は中国でもロシアでもちゃんといきている。
翌3日は朝ホテルをチェックアウト。まず故旧博物館にいく。その大きさにただただ圧倒される。血塗られた巨大なもの一号。堀に囲まれた禁紫城は端から端まで何も見ずにあるいても20分ぐらいはかかりそうだ。解説日本語テープを借り(これを借りるにはデポジットを払う。自転車に乗った人がでぐちまで預けたお金を運んでいくので、自分が預けたお金がそのまま戻るシステム)、見学。巨大さと日本に中国が与えた影響を感じた。建物の形、装飾品など日本文化の多くのものを中国からもらっているのねと思った。ひろいひろい故旧博物館をでると山がある。お堀を作るときに出た土で作ったそうだが、その規模の大きさにあっとうされた。紫禁城やこの山を作るのに何人死んだのかと思うとご愁傷様というかんじである。
山を降りて、お堀の脇をあるとく、人々の暮らしがあり、狭いところにきたない家がおおくあった。人民が使う食堂でギョウザを食べた(これはわかった)。水ギョウザであったがこれも山盛り。豚肉が少々におったがこれは許容範囲。まあおいしかった。食事を済ませた後天安門広場やその周辺の美術館など見学し、あとは買い物。なにせ6日も汽車である。スーパーに行くと日本と同じような品ぞろえで欲しいものは(といってもカップラーメンだけど)そろった。
2/03
北京を定刻に出発。長春、ハルビン、満州、バイカル湖などを通ってモスクア。汽車はコンパートメントになっていて、4人部屋。出発した時はもう一人日本人がいただけ(彼のことは以後鏡君と呼ぶ)。途中から中国とロシアの夫婦がのってきて、4人にで旅をする。 朝目がさめると一面雪景色。お湯はただなのでカップラーメンを食べる。同部屋の日本人とは出発の時「日本の方ですか?」みたいな話を一言しただけで会話はなし。初日は特に用事がなかったので話しかけなかったのであるが、それ以降モスクワまで会話なし。ロシア中国夫婦とは私も鏡君しゃべるのだが6日間しゃべらないというのはいろいろと理由があるのだが、ちょっと変な人でした。鏡が好きみたいで、ねんじゅう鏡を見ていまして、あまり長いので一度時間をはなったら40分ほど。だから鏡君。

02/04−>
翌日の朝満州里に到着。中国国境の町についた時はまだ暗かった。ここで少し買い物をして、持っていた元を換金。レートはとても悪く、ロシアで換金すればよかった。
満州里駅を出て、カイバリスクという駅でおろされた。ここはもうロシアである。天気は快晴。雪はあるが積もっているというかんじではない。はるかかなたまでの草原である。とても美しかった。こんなところで馬でも乗れたらなと思うが、とにかく寒い。寒いというのは正確ではない。痛いのだ。完全防寒をしているのだが、外にいると顔の部分がとても痛い。いままで寒いといっても−25゜の八ヶ岳ぐらいであったが、ここ満州は寒さの格が違う。寒くなく、痛い。温度計はなかったが、きっとバナナで釘が打てるぐらいの寒さであったに違いない。ここで8時間ぐらい駅で待機して汽車は西に向かう。だんだんとシベリアに近づくのである。西に行くにしたがって雪が多くなり、暖かくなっていく。バイカル湖のあたりまでくると普通のさむさになった。
バイカル湖以降はどうも記憶が曖昧になる。なぜかというと、風景が変わらないのである。針葉樹のタイガが何日も続くのである。たまに町になり家並みがあったりする。駅では物うりのおばちゃんがいて買い物をしたりするのであるが、町を抜けると樹林。まるでアマゾンのようである。アマゾンと違うのは、鉄道を作るのに多くの人が死んだこと。血塗られた巨大なもの2号はシベリア鉄道。
食事はカップラーメンのほか、食堂車やプラットホームで売っているパンなど。食堂車の食事は値段も高くなく(200円ぐらいか)、味も悪くなかった。ボルシチはレモンがきいていておいしかった。バイカル湖のあたりでは魚の薫製のようなものも売っていて、生野菜をのぞけばそれほど貧弱な食事ではなかった。
ただ、食事はぼちぼちでも車内ではあまりすることもなく、昼間はうとうとすることが多い。当然、夜はなんとなくなく寝られなくなった。ちなみに毎日西に移動しているので、毎日時差が一時間ぐらい発生し、一日25時間ぐらい楽しめる。
昼がいいかという、結構疲れた。昼間は下のベッドは4人でいすとして使われるのであるが、鏡君が寝ていることが多く、私のほうに中国、ロシア夫婦が座り狭いのに3人でいすに座ることがままあった。ある時はなどは、食堂車から帰ってきたら私のベッドで二人が抱きあっていて、いいかげんにしろよな!自分たちのベッド(2階部分)寝ろといいたい気分になった。いれ以降中国人とロシア人は嫌いである(鏡君はその夫婦と気が会うようでよくしゃべっていた。ちなみに鏡君の職業は教員だという)。てなわけで、シベリア鉄道後半は食堂車で時間を過ごすことが多くなった。
2/9
夕方にモスクワ到着。よくわからない地下鉄を迷いながらホテルに向かう。恐ろしく古いエスカレーターはごとごとと音を立てて、えらく深いところまで連れていってくれる。ホテルは古いがまあきれいだった。そこで久々にシャワーを浴び、洗濯をした。久々の風呂はうれしい。明日はポーランドに入れるかと思うともっとうれしかった。
2/10
ポーランドへの列車は午後の出発なので、午前中はクレムリン、赤の広場周辺を散策。宮殿の中は博物館になっていたが、大きな荷物をもっていたので、中には入れなかった。ロマノフ王朝の作品であるが、血塗られた巨大なもの3号。ただ、禁紫城を見た後だったので大きいとは感じなかった。城壁の外側は雪が積もっていて、子供たちがソリをしてあそんでいた。モスクワに到着した時とは別の駅からポーランドに出発。夜中にたたき起こされ、ベラルーシに入国(昔白ロシア共和国といったところ)。午前中にワルシャワについた。ワルシャワは曇っていて、何となく陰鬱なところだったので、すぐにクラクフに向かう。車窓からは畑だけがずっと続いていた。ポーランドという国は畑が果てしなく続いていている平らな国のようでドイツの戦車隊にいっきに制圧されたのが納得が行った。
夕刻にクラクフに到着した。いままでは極寒の地を旅していたのであるが、クラクフは暖かくまるで春のようで、なにかほっとするものがあった。この日はクラクフのユースに泊った。
2/11
今日はアウシュビッツである。クラクフでバスに乗りアウシュビッツに向かう。一般的にアウシュピッツといわれているが、アウシュビッツとビルケナウの二つの施設を混同していることが多い。バスはアウシュビッツのところまで行ってくれたので、駅から歩かずに見学できた。アウシュビッツは国立博物館となっていて、写真、遺品、髪の毛、ガス室の跡などがあった。展示室は収容棟をそのまま利用していて、一部の収容棟は執務室として現在も利用されていた。大量の人が殺された建物の中で仕事をするというのはどうも私の感覚だと気持ちが悪いのであるが、ポーランド人はどう思っているか聞きたかったが、その機会がなく残念であった。
アウシュビッツの見学を終え、ビルケナウに行くのであるが、けちって歩いたところ、一時間以上かかった。アウシュビッツ関係の映像で、巨大な門の中に引き込線があり、汽車が入っていくシーンがあるが、そこがビルケナウである。ここはアウシュビッツとは違いえらく広い。建物もちゃんとしたものは少なく、柱だけが残っているものがほとんど。ガス室などはドイツ軍が破壊したままのものが残っていた。
巨大な血塗られたもの4号。

02/12
  クラクフの街中を散策したと思われるが記憶なし(3年前をパスポートと記憶だけを頼りに書いているのでわすれることもちょっとあります)。

02/13
アウシュビッツを見た後はスロバキア、ブタペスト、ティミショアラを通過して、セルビアのベオグラードに行くことにした。ベオグラードからサラエボに行くかスロベニアに行くかは? まだ内戦の影響が残っているようでサラエボとセルビアは不仲なようであった。セルビアにしても南部コソボでは戦闘状態である。ベオグラードにNATOの空爆があったのも昨年であり、情報もあまりなかった。ベオグラードからスロベニアまでは特に問題なさそうであるので、とりあえずベオグラードに行ってみることにした。
夜クラクフを出発しスロバキアを通って朝ブタペストに到着。ブタペストからは各地にたくさん列車がでていて、ブカレスト行きの列車も午後にあったため、午前中はブタの町を散策した。川をわたり城を見た。
午後列車でルーマニアに向かう。0時近くにルーマニアのティミショアラに到着。翌朝の4時ごろベオグラード行きの列車が出るのでステーションホテルにしようかと思ったが、どうも雰囲気が悪い。こういった地方都市では旅行者をみるとタクシーとかいって運転手がよってくるものであるが、そういったものもなくどんよりしている。ちょっと恐かったので駅前のホテルに25ドルも出して宿泊。 朝食付きの値段であるが、早発ちなので、食事もとれずなんかとっても損をした気分になったが、安全にはかえられないがちょっと悔しかった。

02/14
ルーマニアのティミショアラを3時に出発。ベオグラード近郊も永遠に続くかのような畑が続いていた。昼前にベオグラードについた。サラエボに行くバス停は見つからず、かといってベオグラードでサラエボの話をするのもはばかられた為、サラエボ行きはあきらめた。列車の時刻表を見るとトリエステやテサロッキヘニをはじめとして各地に列車は通っているようで、もはや戦後ではないといったかんじか。今回は安全をみてスロベニアに向かうことにした。汽車の出発まで市内を歩く。NATO空爆の跡と思われる壊れたビルがあった。警官が話しかけてきたので写真をとっていいかと聞いたらだめだといった。
駅に戻り、便所で用を足す。巨大な荷物を抱えて用を足すのはなかなか大変で、こういった時は一人旅は不便である。日本であれば便所の前にザックを置いていくのであるが、外国ではそうもいかない。連れがいれば、あるいはたまたま日本人がいれば荷物を見ていてもらえるのだが、一人だと自分の手の届くところに置いておかなければならない。ちなみにここの便所は有料。そういえば、駅の周りにたくさんの「作品」がころがっていた。駅の便所を有料にするといろいろと副作用が出るのかもしれない。

02/15
夜中にクロアチアのザブレグを通過し、夜明け前にスロベニア到着。目的の湖まで行くバスは6時にならないと出発しないので、寒い中頑張る。絵のように美しい湖と言われるブレッド湖を訪ねた。小一時間で一周できる位の小さな湖であるが、湖には教会のある小さな小島があり、まわりは白い雪をいただいた山に囲まれ誠に美しい。これまでけちけちの生活をしていたので、チトー大統領の別荘であった高級ホテルに泊まろうと思っていったのであるが(それでも一泊9000円ぐらい)、3月10日ぐらいまでお休み。ここは避暑地なので冬は完全にオフシーズン。しかたないのでユースにとまる。でも、きれいな素敵な宿であった。
宿から5分ぐらい坂道を登ると城があり、ここからの風景もとてもよかった。スロベニアなんて聞いたこともないという人がほとんどだと思うが、お勧めです。

02/16
午前中は湖の周りをぶらぶらして、その後リュブリャーナへ。夜ベネツィア到着。駅に出るとお面をかぶった人がたくさんいて驚いた。というかお面愛好家としては感動。17日からお祭りがあると同じホテルに泊まっているスイス人のねーちゃんが教えてくれた。
食堂では日本語のメニューをみてラザニアを注文した。
02/17
午前中は街中を歩く。お祭り中だからかはわからないが、屋台のお店がいっぱいあり、楽しめた。特に肉製品が豊富で、日本ではまず見られないダチョウのサラミを買った。昼過ぎにベネツィアを出発。フラクフルトで乗り変え。空港でキャビアを売っていたのだがちっぽけな高級キャビアが$600(イラン産)。ちょっとびっくり。成田へ。

02/18
成田到着



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